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タイトルダンジョンの階段を[しらべる]ことができる初代ドラクエのような「よのなか科」を期待
記事No4012
投稿日: 2018/01/26(Fri) 00:16
投稿者佐藤 未悠 < >
藤原先生こんにちは。
1月のよのなか科の動画を見たので(私用で出席できませんでした、残念)ちょっと私見を。


正直言って、処理脳より編集脳の重要さを語っているよのなか科の進行自体が処理的すぎる(藤原先生が完全に制御してイレギュラーの発生する余地がない)と感じました。
そして概して人は相手の「言ってること」より「やってること」の方を敏感にキャッチしてその場での身の振り方を調整します。


宮台真司さん(藤原先生と共著も出してますね、読みました)は、朝ナマで「そもそも論」を展開しようとして炎上したウーマンラッシュアワー村本さんを下記のように擁護してました。 https://www.youtube.com/watch?v=aEMpgeSIXaA&t=2657s 15:50〜
「英語では『自明性』はobviousnessとfamiliarityの2つがある。『自明の理』などはobviousness。familiarityは慣れ親しんでいる。いわば概念の自動的な連結による決まり文句って言うのは慣れ親しみ(=familiarity)なんですよ(人間理性に基づいた自明性じゃない)。これはセンテンスに開いてみると実は(familiarityではあっても)obviousnessじゃないってことがはっきり解ったりするんですよ」

私はこれをドラクエの[かいだん]コマンドで例えたりしてます。
初代ドラクエはマップ上の階段に移動したあといちいち[かいだん]コマンドを選択しないと階段を昇降しません。しかしドラクエ2以降ではマップ上の階段に乗っかると自動的に昇降します。
この仕様変更でゲームは円滑化しましたが、階段に乗っかると勝手に昇降してしまうため階段上で[しらべる]コマンドを使うことが原理的に出来なくなってしまった。
でもリアルに考えると(城や街の階段はまあいいとして)ダンジョン内の階段って昇降する前に[しらべる]必要あると思いませんか?
ダンジョン内の階段なんて、管理会社が定期的に安全性点検してるわけじゃないだろうし、敵が罠をはってるかもしれないし…(ドラクエ2の勇者御一行は緊張感無さすぎ!)

このように「リアルに考え」てfamiliarityによってスルーしていた自明性に楔を打って[しらべる]訓練こそ「よのなか」科の目的だと勝手に解釈しております。リアル=「よのなか」ですから。


藤原先生は「学ぼうとする大人の姿勢を見せることが一番生徒たちの学習のモチベーションを高める」と言ってました。全く同感です。
しかし藤原先生にとってよのなか科の進行、例えばよく使われる「一般的に白いものを黒くする」という演習がfamiliarityになって緊張感を失ってはいないでしょうか?
そして大人のfamiliarityに依拠した物言いは知らず知らず権威的になり、obviousnessに基づいた発言を締め出してしまうおそれがある、と思います。

そこで勝手な提案。
よのなか科の授業をより編集型にするために、毎回参加者に「白い」以外の形容詞を聞いてみて、それを逆転させてみてはどうでしょう。怖い、熱い、薄い、怒りっぽい、凛々しい等々。
そうすると今まで見えなかった色々な問題―例えば「逆転」という操作が一様ではない(『ドラえもん』4巻4話「アベコンベ」の回を見るとよくわかる)―ことに気づくと思います。
個人的には、思い通りに授業が進まなくて慌ててる藤原先生を見てみたい(笑)

またゲームで例えると、「プリレンダリングではなくリアルタイムレンダリングでの授業を!」ってことです。


なんだか藤原先生やよのなか科に対して批判的な事を書き連ねましたが、「よのなか科」という場、そしてそれを作った藤原先生は超偉いと思っております。←コレは社交辞令でもなんでもなくて全くの本心。

2月のよのなか科はぜひ参加させてもらいます。


※時間的制約があるので現実的にはよのなか科をfamiliarityで進行せざるをえない事情もよくわかるので、obviousnessの議論は「よのなか科 補講」としてこちらの「よのなかフォーラム」でさせてもらうかもしれません。

タイトル前提自体を生徒の側に委ねること
記事No4013
投稿日: 2018/01/26(Fri) 06:32
投稿者カズ

 ご指摘、ありがとうございます。

> そこで勝手な提案。
> よのなか科の授業をより編集型にするために、毎回参加者に「白い」以外の形容詞を聞いてみて、それを逆転させてみてはどうでしょう。怖い、熱い、薄い、怒りっぽい、凛々しい等々。

 はい、これは面白いと思います。
 常識的に「白い」ものを「黒」にしたらどうなるか?・・・はいまや「定番」のお題ですから。「よのなか科」も、一種の「落語」のようになってきた部分もあります。

 前提を崩すのは、試みとしてはいいでしょう。

 ただし、学校というところでやる授業の場合、まず時間の制約があります。また、学校という「場」そのものが(一般社会でやるまっさらからのアイディア出しや事業の立ち上げとは違って)予定調和的な波動を持っていることもあります。

 あとは、一条高校の「よのなか科」は2年間で30回以上やっていて、仕上げの段階に入っていることもあるかな。生徒(とりわけ現3年生)やずっと来ている地方自治体の教育関係者に、まとめとして構造を解説し、12月からの3回(2月は入試で忙しいのでありません)でファイナルアプローチを試みているのです。

 生徒が先生になる「よのなか科」は、テーマ設定から生徒がやってるんですけどね。

 なので、講演や書籍では、情報編集力のベースとなるのは、予定調和的な学校や塾での勉強ではなく、あくまで予定不調和の「遊び」だと強調しています。想定外の問題(例えば、仲間と遊びに出たら雨が降ってきた。さて、何をするか?)や板挾み問題(同級生が迎えに来て遊びに出たら、弟も付いてきちゃった。さて、どうルールを変えるか?)をどれくらいこなしたか、乗り越えてきたか・・・が勝負だからです。

 つまり、学校での限られた時間(小中高校とも1年間の授業時間は1000時間程度しかなくてTV視聴+スマホの時間の方がたぶん長い:笑)で「情報編集力」を完璧に身につけようとするのではなく(それは無理でしょう)、処理力/処理脳から編集力/編集脳への脳の切り替え(シフト)に、アクティブラーニングを通して実感が持てればいいと考えているわけです。

 情報編集力を身につける訓練は、何と言っても、社会の現場で、できるだけタフな状況の中で揉まれることでしょうから。

タイトルRe: 前提自体を生徒の側に委ねること
記事No4015
投稿日: 2018/01/27(Sat) 08:58
投稿者佐藤 未悠 < >
お忙しい中のご返信ありがとうございます。


>情報編集力のベースとなるのは、予定調和的な学校や塾での勉強ではなく、あくまで予定不調和の「遊び」

そのとおりだと思います。
ただ、「『学校や塾=予定調和、遊び=予定不調和』という予定調和的な認識を温存すべきか否か、なぜ学校や塾が予定調和でなければならないのか」というより根本的な問題もありますが、この問題を正面から学校で扱うにはまだ現実的に(特に保護者の方たちに対する配慮から)難しいのでしょう。


>情報編集力を身につける訓練は、何と言っても、社会の現場で、できるだけタフな状況の中で揉まれることでしょうから。

これもそのとおりだと思います。

私はよのなか科に対し「権威的」と批判めいたことを言いましたが、そういう授業に参加することもまた「社会の現場」の訓練をしているとみなすことも出来ます。
(私見ですが、この時鍛えられるのは情報編集力ではなくむしろ基礎的人間力―わけても特に重要な力である「勇気」―ではないでしょうか?そしてこれが身についていないと、いくら情報編集力があってもそれを発揮することが出来ない。経験談です(^_^;))


私個人としては、他者の生きている予定調和的な世界への配慮を持ちつつ、予定不調和な認識のもとで生きることの楽しさを謳歌したい、と思っております。